第一回「尊い」サミット 「尊い」とは
どうも、なををををををです。4コマ界の新星、「どうして私が美術科に!?」の2巻発売が迫る4月中旬、みなさんどのようにお過ごしでしょうか。あらゆる紹介文で「尊い」というワードの用いられるこの作品のことが好きなオタクが、近年オタクの間でよく使用されている「尊い」とはどういう感情か考えてみる、というのが今回の記事の趣旨です。
この記事を書くまでの経緯↓
ブログやってるどうびじゅのオタクせーのっで「尊い」の考察する記事書いてほしい、第一回尊いサミット
— 千歳とせ (@10Ccandy) 2018年4月9日
「よし…俺もやるか…」
以上です。本題イクゾー。
自分は「尊い」という感情は基本的には「すごい!」とか「好き!」という感情と同じ地帯にあるものだと思っています。しかし当然、それは「すごい!」「好き!」とどう違うんだろう?という考えに行きつきます。考えた際に、「尊い」には「対象に深く立ち入ろうとしない」というニュアンスが含まれているのではないか?と感じました。
もともと「尊い」ということばは、「高貴な身分」だとか「貴重」という意味のことばです。「尊い」には「貴い」という漢字違いの表記もあります。そして貴重なもの、高貴なものとは触れがたいものです。
高価な陶器などでイメージしてもらえるとわかりやすいかと思います。奇跡のような美しさを放つ陶器が目の前にあったとき、それに触りたいと思うでしょうか?僕だったら、「もし自分が触っただけで何かを汚してしまったら、壊してしまったら取り返しがつかないことだぞ」と怖くなって絶対に触ろうとしないでしょう。
そういう「へたに触れて壊してはいけない」、「大事にしたい」と思う感情がすなわち「尊さ」の根源なのではないか?と考えました。「すごい!」「好き!」では感情としての勢いが強すぎて触れるどころかバンバン叩きに行くような感じがします(もちろん、これらの感情が悪いという話ではありません、むしろこっちも大事だと思う)。
さらに言うと、この「壊したくない」に「でも好きだとは伝えたい、自分がこれを好きであることを周りに知ってほしい」という意思表示がくっついた、ギリギリの力加減で行われる愛情表現がまさしく「尊い」なのだと僕は思います。「好き…」とかそんなのでも意味は一緒です。
先に引用した千歳とせさんの記事にもあるように、「どうして私が美術科に!?」は「時間」という概念がちょくちょく使われています(課題の〆切や待ち合わせ、高校生活の残り時間など)。
言うまでもなく時間とは貴重なもので、こういうところが「どうして私が美術科に!?」の刹那的な青春の輝き、「尊さ」の演出に一役買っているのではないかな?とか、そんなことを考えてみたところまでで今回の記事を締めたいと思います。
貴重な時間を割いてこの記事を読んでいただきありがとうございました。